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あとがき
「ゴーショーグン」の五冊目が、やっとできあがりました。
といはえ、今回の「時の異邦人」は、今までの小説のPART5、続編という訳ではありません。
この作品は、TV放映以来、実に四年ぶりに映画化されるのですが、かといって、TV版「ゴーショーグン」の続編でもなく、まして ”四年後のゴーショーグン” でもありません。
では、なんなのか⋯⋯。
大袈裟なことは言いたくありませんけど、”ゴーショーグン”という作品のメンタルな世界⋯⋯ゴーショーグンのテーマのようなものを書いたつもりだったりして⋯⋯やっぱ大袈裟だな。
ま、テーマなんて、オーバーな言い方をすると、慣れない正座をさせられたようで足がしびれ、おへそがかゆくなり、ずっこけて、目を回しそうなので、気楽に、お楽に、ねそべって、という感じのテーマですけれど⋯⋯
ある友人に「『ゴーショーグン』って、いったい何なの?」と聞かれたことがあります。
「一体なんなんでしょうね」
作者も首をひねってしまいます。
僕の代わりに、色々な人の御意見を聞きますと⋯⋯
「破壊と殺りくをよしとする心を、子供に植えつける俗悪電動紙芝居」⋯⋯これ、日本のアニメーションをはじめて見た、ドイツのかたぶつ学校教師の言葉。
ま、これは極端な例としても⋯⋯
「ロボットのおもちゃを売る為の、30分CMアニメーション⸺」
⋯⋯違うと言いきれないところがつらい⋯⋯
「26回の放映中に三回も放送時間が変わった、悲惨なマイナーアニメ⸺」
⋯⋯ええい、好きで時間を変えたんじゃないわい。
「BGMの予算が少ないので、やたら既成のクラシック音楽を使った、お手軽アニメ⸺」
⋯⋯これは違います。クラシックは、最初からの狙いで、音響監督の松浦典良氏は、使える音盤をさがすのにずいぶん苦労されました。
「登場人物の台詞がアドリブばかりのひょうきんアニメ⸺」
⋯⋯なるほど。
「メカはともだち、そればっか」
⋯⋯ふむふむ。
「少しまじめで、ほとんど、いいかげんな⸺」
⋯⋯かもしれんな。
「これは断じてSFではない⋯⋯これをSFというのはSFへの冒瀆である」
⋯⋯SFだなんて言わないもん。
「パロディでふざけすぎ⸺」
⋯⋯好きなんですよ。いいじゃないすか、
「えーっ!? アニメージュの賞を取った? うそじゃあ~」
⋯⋯僕も、同感です。
「ブンドルサマぁ~!♡♡♡♡⋯⋯」
ご勝手に⸺
「レミー命!」
⋯⋯そうはいかんぞ。僕だって!⋯⋯
その他、御意見続出、わあわあがやがや―――でも、それも放映が終われば、忘れ去られるのがマイナーアニメの運命みたいなものです。
ところが、「死んでも生きてやる」
最近のロボットアニメのおきて破りをして主要人物が誰も死なないという「ゴーショーグン」のメンバーは、その後も小説の中で、ロボットはおろかTV版の主役だったケン太という少年もいないのに、生き続けてきました。
「ロボット”ゴーショーグン”が出ないのになぜゴーショーグンなんだよ」
⋯⋯なぜなんでしょうねぇ?
作者も首をひねります。
「『ゴーショーグン』って、いちおう少年向きのアクションアニメだろ? けど小説の第三作『狂気の檻』なんて、子供に読ませていいのかよ」
⋯⋯確かに子供には刺激が強すぎるかも⋯⋯子供向きのテーマじゃなかったかもね⋯⋯
作者が、ふらふらしているから、編集部だって大変です。
過去四冊の表紙やさし絵を見れば、分かります。
浪花愛さんの可愛い絵から天野喜孝氏のシュールな絵へ、いつの間にか変わり、元は、本橋秀之氏他のスタジオZ5のみなさんが、作ったキャラクターデザインでしたが、上条修氏キャラ、いのまたむつみさんキャラ、更に更にetcを経て、しかもそれぞれが魅力的なので、どれが本物だったのか、作者にもさっぱりわからなくなっている始末⸺
登場人物が活躍するストーリーにしろ世界にしろ同様、まるで精神分裂であります。
しかし、どんな顔をしようと、どんな星を訪れるようと、やっぱり、ゴーショーグンのメンバーは、ゴーショーグンの六人組なのです。
どうやら彼らは、生きている世界のストーリーや題材がどんなものであろうと、自分は自分であることを、けっして止めない人達のようです。
さて文字の世界の小説の中で、四年間、生きていた六人組が、また、別の世界をさまよえというお呼びがかかりました。
制約の多いテレビの中ではない、映像の世界で生きろというのです。
テレビのラストシーンの「See you again」が、実現しちゃったんです。
「どんなところに行こうと俺達は俺達さ⋯⋯。映像だって、小説だって⋯⋯」
彼らの声が聞こえます。
”俺達は俺達”ってどういうこと?
とっ散らかって、本当に精神分裂を起こしかけていた作者も、これを機会に「ゴーショーグン」って何なのか、自分の中で、おさらいすることにしました。
上手くいったかどうか、自信はまるでありませんが、レミーという一人のヒロインを通して、”ゴーショーグン”マインドを旅してみました。
本当は、真吾を通してでも、キリーを通してでも、それこそ、ブンドルでも、ケルナグールでもカットナルを通してでもよいのですが、レミーを選んだのはそこは、それ早い話が僕の趣味です。
文章による小説、絵による劇画やコミック。そして、映像による映画は、それぞれ別々の表現方法です。
映画化の機会をあたえられた僕たちスタッフは、もっとも映画らしい方法で、”ゴーショーグン”マインドを描こうと思いました。
映画らしい方法だからといって、めったやたらとスピーディに動かそうというのではありません。
映画というものは、ある一定の時間の中で、時が絶えず流れて、一つの世界を見せてくれます。映画の中には時間の流れがあります。小説のように、前に戻って読みかえしたり、読むのを、止めて考える暇はありません。
えっ? ビデオで、ストップさせれば、時を止められる?⋯⋯スローもあれば、巻戻しもできる?⋯⋯そ~いうこと言われると本当に困っちゃうんですが、やっぱ、そ~いうのって、本当の映画の見方じゃないと思うんですけどね。
ともかく、一定の限られた時間のわくの中に、様々な時間の流れと映像をモザイクの様に閉じ込めて、”ゴーショーグン”マインドを描こうと思ったのです。
オットットットまた、オーバーな言いまわしになってきたぞ⋯⋯。
ま、上手くいったら、オメデトさん。えっ? ほとんど失敗?⋯⋯ごめんなさい。そんな気楽な気持ちでやっちゃいました。
映画版の「時の異邦人」は、そんな映画的な方法を湯山邦彦監督がさらに工夫し具体的なイメージにしたものです。
そして、一定の時間の中に、様々な時の流れを散りばめるという方法を文章で、必死こいて、小説化したのが、この小説版「時の異邦人」です。
映像と文章は表現が違いますから、映画と小説も違うところが多々あります。「時の異邦人」には、映画版と小説版の二つが生まれましたが、双児の兄弟だと考えていただければと思っています。
今回、僕としては、えらくあとがきが長く、映像、映像と書きましたが、みなさんの中の一人でも「時の異邦人」を見て、読んで、「あれはエエゾー」と言って下されればうれしいのですが⋯⋯
(我ながらくだらない駄じゃれ⋯⋯反省⋯⋯)
P・S
さて、この本を読んだ方の一人が「なんだか、これで『ゴーショーグン』は終わっちゃったみたいだね」などと言っていましたが⋯⋯でも”ドッコイ、死んでも生きてやる”「ゴーショーグン」の連中です。本来の小説版は続いていますし、また、お会いできるとうれしいのですが⋯⋯
では、いつも通りに⸺
SEE YOU AGAIN
首藤剛志
原文に書いてある「上条修」は誤植だと思います。恐らく「上條修」のことだろうね。