キネ旬ムック 動画王 Vol.7 杉野昭夫 ロングインタビュー

原文に所々誤字、脱字、衍字などがありましたので、明らかな誤りを修正してここに投稿しておきました。他にもあるかもしれませんので、ご寛容にご覧いただけましたら幸いです。

英語翻訳はこちらから。


杉野昭夫

不屈の闘志に寂寞を秘めた矢吹丈、青春美を体現する岡ひろみ、理想としての男の生き様をみせるジョン・シルバー⋯⋯。数々の名キャラクターを創造したアニメ界の詩人、杉野昭夫登場。

取材:松野本和弘
構成:村上今日雪

 虫プロダクション創生期からアニメーターとして参加、名作『あしたのジョー』のメイン作監として活躍、マッドハウス参加後は、出崎統監督とのコンビネーション作品で華麗な映像美を披露、そして現在も、往年の手塚治虫のテイストを守りつつ制作されつづける手塚プロ作品において活躍中の杉野昭夫氏をたずねた。


●虫プロダクションの時代

⸻最初、虫プロに入社されるときに真崎守さんに声をかけてもらったと伺っているのですが。

杉野 貸本漫画、劇画ってありますね。そのときにもりさん(真崎守は漫画家としてのペンネーム)と同じところに投稿していたんです。それを彼が覚えていまして、今、仕事をしていないのだったら虫プロに来ませんか? という手紙をいただいたんです。それがきっかけです。僕は当時、漫画を描こうと思って投稿してた時期で食えなくて。あのころの人たちはみんなそうじゃないかな? 貸本の出版社がどんどんつぶれていって、貸本を描いてた人たちはほとんど虫プロに入ったんですよ。

⸻貸本漫画では何か発表された作品といのはあるのですか?

杉野 2本くらいかろうじて入選しているんです。それが載った本は自分で保管しています。誰も見たことがない。出崎(統)さんは僕がずっと落選ばかりしていると思ってたんですが、じつは入選してるんだぞって自慢しました。

⸻虫プロというのは、いわゆる「映画」作りを目指している東映動画とは少し違って、手塚治虫さんの絵をアニメ化するということが大前提としてある会社だったですよね。それが、アニメーション作家ではなくて漫画家を志望する人材が集まってきてアニメーターの仕事をしていたという状況を作り出していたという気がするのですが。東映動画ですと、ディズニーなどのアニメーションが好きで入った方が多いといったように、おおもとの姿勢が違いますよね。

杉野 随分違いますね。アニメーションなんていうのは全然知らないけど、漫画を描くのは好きだったという人が多いですね。出崎統さんにしろ、荒木伸吾さんにしろ、金山明博さんにしろね。あの人たちは全部セミプロでしょ。プロだったんですね。もりまさきさん(真崎守)もそうだし、永島慎二もそうだし、亡くなった瀬山義文さんもそうです。山本暎一さんが小説の中で瀬山さんのことについて書かれてますね。僕より若い人だったのに早くに亡くなってしまってね。

プロフィール

杉野昭夫(すぎの あきお)
昭和19年9月19日北海道札幌生まれ。
高校2年生で貸本劇画誌「街」「影」へ杉野アキオの名前で投稿開始、漫画家をめざす。
昭和39年、真崎守のすすめで虫プロダクションへ入社し、アニメーターとして活躍。
昭和47年、虫プロダクションの同僚とともに退社、マッドハウスを設立。東京ムービー作品などに携わる。
昭和55年、出崎統とともにあんなぷるを設立。手塚プロ諸作品にて活躍、現在に至る。

⸻虫プロというのは募集制度だったのですか?

杉野 ええ。僕は飛び入りだったので違うんだけど。虫プロに行く前に、馬が走ってるところだとか、キャラクターがまわりこんでくるシーンといったような動画を自分で描きまして、手塚さんにあらかじめ送ってたんです。劇画みたいな絵で、今考えると動画になっていなかったと思うんですが。それを見て、まぁ、動画くらいはできるだろうと判断されたみたいです。だから試験はありませんでした。

⸻では、そのころの同期の方といいますと金山さんあたりになるのでしょうか?

杉野 同期といえば同期だけど、半年くらい彼のほうがあとじゃないですか。彼は『ジャングル大帝』から入って来てますから。僕はその前の『アトム』からですからね。

⸻杉野さんが作画について教わった方というのはどなたになるんでしょうか?

杉野 教えてくれる人なんかほとんどいなかった。

⸻たとえば、声をかけてくれた真崎守さんなどは?

杉野 いえいえ。あの人は「アシスタントディレクター」として制作の担当でしたから。えらい人なんですよ。とてもそういう人じゃないですよ。作画現場にはいない人だから。

⸻すると見よう見まねで会得されたのですか? 平田敏夫さんなどには指導されませんでしたか。

杉野 そうですね。動画のころ原画についたのはポンさん(平田敏夫)です。

⸻平田さんの原画を動画にされていたんですね。

杉野 そうです。そこで覚えたというのが一番大きいかもしれませんが。

⸻村野守美さんなどには?

杉野 村野さんもそうですね。村野さんには『佐武と市捕物控』でムチャクチャに叩かれましたから。

⸻では、杉野さんの先生というと平田さんであり、村野さんであるというわけですね。

杉野 そうですね。

⸻東映動画から来られた方に杉井ギサブローさんや中村和子さんなどがいらっしゃいますが、あの方たちから実際、指導を受けたりということはなかったんでしょうか?

杉野 ないですね。僕が入社して間もなくギサブローさんはアートフレッシュという会社を作って出崎さんといっしょに虫プロを出てますから。

⸻昭和39年に虫プロに入られて、実際作画に参加されたのは、『鉄腕アトム』からですか?

杉野 勝井千賀雄さんの「イルカ文明」(『鉄腕アトム』第84話、昭和39年8月29日放映)からですね。魚をフォローで描くカットを担当したんですが、夏休み明けにラッシュをやってみると、その魚に泡まで描いちゃってたんで、魚に泡がくっついて泳いでるんですね。それを手塚さんが見てこれはまずいんじゃないか、と注意された記憶があります。動画としては、この作品から参加しています。

⸻『新宝島』には参加されてはいないのですか。

杉野 これはやってませんね。虫プロ時代はメインになるものはほとんどやっていない。僕がこのころ、一番やりたかったのが『W3』。あれの原画が描きたくてしょうがなかった。そのころ、ちょうど『ジャングル大帝』が入ったから結局できなかったのですが。

⸻『ジャングル大帝』『ジャングル大帝 進めレオ!』から原画をお描きになってますね。

杉野 『ジャングル大帝 進めレオ!』では永島慎二さんといっしょに作画班を作っていて、そこで初めて作監の真似事をやりました。ラッシュをやるときにポスターまで描いたから良く覚えています。初作監もどきというのは、「リカオンは啼かず」(『ジャングル大帝 進めレオ!』第10話、昭和41年12月7日放映)というタイトルのレオが全然活躍しない、老いたリカオンの話です。みんな手を抜いてラッシュを見に来ないから、見に来い、とポスターを描いたんだけどほとんど来てくれなかったですが。視聴率が悪いからみんなシラケてたんですね。

⸻レオが大人になってしまったから⋯⋯。次の『鉄腕アトム』の後番組である『悟空の大冒険』はおやりにならなかったのですか。

杉野 あの作品のスポンサーはどこだったかな?

⸻明治製菓ですね。『アトム』の後枠ですから。

杉野 ああ、そうですね。荒木さん、金山さん、僕の3人でそのお菓子のオマケの漫画を描いたことがあるんですが。

⸻ありましたね。小さい豆本でした。オールカラーでテレビの画風と違和感のない絵だったので感動した覚えがあります。

杉野 あれを一冊ずつ担当しただけで、実際の作品には参加してません。

⸻虫プロ商事で出版されていた『COM』という雑誌に出崎統さんが『悟空の大冒険』を描かれたりしていますが、杉野さんは何かお描きになりましたか?

杉野 僕は何も描いてません。一度、「グラコン」という新人募集のコーナーに入選者がいないから是非描いてくれ、と言われたことがあります(笑)。描きかけて途中で投げ出してしまいましたが。 

⸻出崎さんは『悟空』ではメディアミックスの漫画だけではなく、本編のほうもかなりの作業をされていたようですが。

杉野 作監や演出をやってますよね。

⸻杉野さんが作画監督として本格的に参加した作品というと⋯⋯。

杉野 僕が、作画監督として参加したのは『わんぱく探偵団』が最初です。第1話からではなくて途中からですけど。平田敏夫さんが演出をやった回の『黒猫博士』(『わんぱく探偵団』第11話、昭和43年4月11日放映)からだと思うんですが。そこから参加して、途中でゴタゴタして降りたりもしたけど、最終的には金山さんと僕とで最後までやったんじゃないかな。

⸻沼本清海さんがメイン作監ではなかったんですか?

杉野 沼本さんは作監ではなくチーフです。みんなをまとめる役。最初期からいましたから。虫プロをやめて、バンダイに行かれましたが。

⸻では実質、作画監督をされたのは金山さんと杉野さんということですね。キャラクター表はどなたがお描きになったのでしょうか?

杉野 キャラ表はもりまさきさんです。

⸻真崎守さんは原画もお描きになっていたのでしょうか。

杉野 原画はまったく手がけていません。キャラクターは作ったんだけど。

⸻商品化時の絵、たとえばこのレコードジャケット(朝日ソノラマのソノシートジャケット)などはどなたがお描きになったんでしょうか?

杉野 僕はやっていないから金山さんあたりかな。一番最初の作監は金山さんですから。この鼻の描き方は多分そうだと思います。

⸻なるほど。ところで当時の虫プロというのは作監の方がキャラ表を作っていたというわけではなかったんですか?

杉野 そうですね。作監という名称も使ったり使わなかったりで、作画チーフが作監のような仕事を兼ねていたり。『ジャングル大帝』で勝井千賀雄さんが作監になってますよね。動画としてクレジットされる沼本清海さんは作画チーフです。チーフというのは、つまりまとめ役です。勝井さんは作監という立場でしたが、演出もやっていましたから。作監システムというのは作画を外注に出しはじめて必要になってきたわけです。この『わんぱく探偵団』あたりからですね。だから手塚さんの原作以外の作品の作監作業は大変だったんです。『佐武と市捕物控』でもね。これは最初、村野守美さんがやってるんですが、途中で降りてしまって、そのあとを僕が引き継ぎました。まあ、人のふんどしで相撲を取ったようなものですが。

⸻村野守美さんも原画を描かれていたのですか?

杉野 当時は、原画も描くし、動画もやるし。みんなそうですよ。

⸻分業されていなくて、なんでもやってしまうみたいなところがあったんですね。

杉野 納期がせまってくると、みんなで動画をやったというカンジですね。村野さんも担当、原画を描いてます。

⸻すると作画監督としてキャラクターを作り始めたのは『佐武と市』からですか。

杉野 そうです。村野さんが降りたあと、ライターの人が参加してきて、原作にない話を脚本にだしたんです。そのゲストキャラクターを作るのがえらく大変だった。

⸻そのゲストキャラは原作に登場しない、まったくの杉野さんのオリジナルキャラクターなわけですね。

杉野 ええ、そうです。

⸻『佐武と市』というのは虫プロと東映動画とスタジオ・ゼロとでふりわけて作画が行われていましたが、もともとの企画というか、制作の発注自体は石ノ森さん側から来たわけですか?

杉野 いや、制作母体は虫プロじゃないですか? 虫プロは1話からやってますから、それに合わせる形で、スタジオ・ゼロの鈴木伸一さんがおやりになって、そのあとに東映動画が参加するようになったんです。だから、虫プロがリードしていたと僕は思っているんですけど。

⸻参加してきたというのは制作が追いつかなかったということでしょうか?

杉野 だと思います。でもスタジオ・ゼロというのはそれほど人がいなかったけど虫プロというのは400人くらいいましたから。キャラクターを作って、それを石ノ森さんのところに持って行って、チェックしてもらった記憶がありますから、虫プロがリーダーシップをとってたと思いますよ。そのへんの経緯はりん・たろうさんに聞いたほうがよくわかると思いますが。

⸻虫プロは豊島園と石神井公園にスタジオがあったと伺っていますが?

杉野 ええ、ありました。

⸻それは虫プロ本社のスタジオですか?

杉野 いえ、ちがいます。『あしたのジョー』をやるためにスタッフを別の場所に確保したんです。電気屋さんの二階なんだけど。

⸻では、杉野さんはそちらに?

杉野 そうです。本社のほうは劇場作品をみんなでやってたんです。

⸻『千夜一夜物語』とか。

杉野 そうです。それだけじゃ営業上回転しないから、完全に手塚治虫を離れたところで、僕らがテレビの仕事をさせられてたんです。『わんぱく探偵団』のころからそうですが。

⸻なるほど。それは手塚さんの目が届かないようにという意図からで?

杉野 手塚さんがからんでくるとスケジュールが全部押しちゃって、テレビシリーズなんかできないんですよ。

⸻チェックがきびしいんですね。

杉野 そうです。それにアニメ制作につきっきりじゃなく、漫画も描かれてますからね。だから僕らは『どろろ』なんかは、やってないですね。

⸻では、途中から手塚さん関係の作品ではなくて、違う原作もの、『国松さまのお通りだい』などをやられていたんですね。

杉野 ええ。

⸻劇場作品の『千夜一夜物語』にはまったく参加されていないんですか?

杉野 ほとんどやってません。動画を2カットだけ。そのとき僕は『佐武と市』の作監をずっとやってたから。動画をやらせてくれと言って夜中に2カットくらい貰って来てやったりしました。

⸻あとの『クレオパトラ』とか『哀しみのベラドンナ』などもまったく?

杉野 全然やってないですね。

⸻手塚さんのキャラクターというのはチェックがきびしいんでしょうけれども、杉野さんとしては描きやすいですか? ずっと手塚さんのキャラクターを今も描き続けておられますが?

杉野 そうですね。だから、僕としては本当はやりたかったんだけど、なぜか手塚さん以外の作品にまわされてしまって。

⸻それはご自分の意志とは関係なく?

杉野 もりまさきさんの意図するところなんでしょうね、おそらく。『あしたのジョー』まではそんな感じです。

⸻『あしたのジョー』のキャラクターというのは杉野さんが全部お描きになったんですか?

杉野 メインキャラクターはだいたい僕が作りました。あれはパイロットが2,3本あるんです。そのときは荒木さんと金山さんと3人で作監という形じゃなくて、原画として3人が力石とジョーと段平のキャラクター別に分けて描き込んだんです。基本的には力石が金山さん、段平は荒木さんが担当してましたから、テレビシリーズでは僕がまとめていますが彼らの色が残ってます。

⸻ちばてつやさんや梶原一騎さんのチェックは?

杉野 ちばさんのところには何度も足を運びましたよ。パイロットフィルムを持ってね。確か、一番最初のパイロットフィルムは出崎さんがやったのですが、ちょっと違うというのでやり直して3回ラッシュを持って行ったんです。確か3本あったと思います。それでチェックしてもらって「いいでしょう」ということになったと思うのですが。

⸻特にああしろこうしろという意見はありましたか?

杉野 そのときはなかったと思います。

⸻テレビ作品が始まって、杉野さんはキャラ表をお描きになっていますが、実質的な作監の作業という点では金山さんと荒木さんとで分担されていたのですか? 一応テロップでは3人のお名前が出るのですが。

杉野 荒木さんはこのころ、ジャガードという会社を作っているんです。そこで彼は『ジョー』と平行して『巨人の星』の作監をやっていて、どちらかというと、そっちのほうに力を入れてたんじゃないかな(笑)。

⸻なるほど。

杉野 あの人は手が速いから『ジョー』と『巨人の星』両方やってた。すごい人です。

⸻杉野さんも手が速いとお聞きしたのですが。

杉野 速くないですよ、彼に比べたら全然。

⸻以前、杉野さんの描かれた『となりのたまげ太くん』の絵を見たことがあるんですが、参加されていたのですか。

杉野 『となりのたまげ太くん』は企画書の絵だけですね。

⸻その企画はどこから?

杉野 虫プロの、いまはマッドハウスの社長の丸山正雄さんが持ってきた企画です。そういう企画書用の絵はたくさん描いています。『ドラえもん』も描いてるし。

⸻え? それはいつごろですか?

杉野 このころですよ。『ジョー』のころです。『キャンディ・キャンディ』も『ドカベン』も描きました。形にならなかった経緯まではわかりませんが。

⸻『国松さまのお通りだい』も豊島園のスタジオで作画されていたんですか。

杉野 石神井公園のほうにスタジオができたので、そちらへ移りまして作業しました。

⸻『国松』では監督補という資料を見たことがあるのですが。

杉野 コンテを一本だけ切ったことがあるんですよ(笑)。唯一のコンテ切った作品です。

⸻当初から絵コンテを描く予定だったのでしょうか?

杉野 いや、なんとなく行き詰まってきて、別のことをやってみようかなと思って描いただけです。相当『あしたのジョー』でくたびれたから、体力が無くなってきていて。

⸻でも、画面からパワーが伝わりますよ。

杉野 熱気だけはね。へたくそだけど。

⸻いえいえ。とんでもないです。


●マッドハウス設立、東京ムービー作品への参加

⸻『国松』の放映時期は、虫プロも末期のころですよね。

杉野 そう。このころは、アメリカとの合作ものが増えているんです。僕はやってないけど『バーバパパ』(編注:オランダ、クランク・フェーマスプロ制作のテレビシリーズと思われる。日本では昭和52年放映)とか、2、3本ありましたね。外注として虫プロも参加しているんです。『スノーマン』(編注:アメリカのランキン・バス・プロダクションとの合作『フロスティ・ザ・スノーマン』)とか。あのときに初めて出崎さんと机を並べて原画を描きました。ほかには宮本貞夫さんとかね。これは虫プロが総力をあげて取り組んだ最後の長編作品じゃないですか。

⸻それは作品化されていますか?

杉野 されてます。日本では上映されていないと思うけど。『バーバパパ』は放映されてますが。あとは『マッド・マッドコメディアンズ』(編注・アメリカ、ブルース・スターク・プロダクションとの合作)とかいろいろありましたね。

⸻その『スノーマン』では原画をおやりになった。

杉野 そうです。

⸻『マッド・マッドコメディアンズ』も原画ですか?

杉野 ええ、そのころは全部原画です。

⸻杉野さんが虫プロをおやめになったのはいつごろですか。

杉野 『国松』を最後にやって、解散してマッドハウスを作ったんです。

⸻マッドハウスの代表、社長さんは丸山さんだったのですか?

杉野 代表は制作進行のおおだ靖夫さんでした。今の社長は丸山正雄さんですね。

⸻そのときの杉野さんのポジションというか役職的にはなんだったのですか?

杉野 特にはありませんでした。一応役員という形にはなってましたが。

⸻有限会社だったのですか?

杉野 そうです。出崎統、丸山正雄、おおだ靖夫と僕ともうひとり、5人くらいで作った会社です。

⸻虫プロから独立される理由は何かあったのですか?

杉野 それは単に虫プロがつぶれたからでしょう。

⸻『国松』のあと、もうちょっと続きますよね。

杉野 ちょっとですね。

⸻もうそろそろヤバイというのがわかってきたと。

杉野 『ワンサくん』のころにはもうマッドハウスを作っちゃって。だから『国松』が終わって、トーベ・ヤンソンの『ムーミン』をちょこっとやってるときにみんな二手に分かれたんじゃないですか。マッドハウス経由とサンライズに。大きく分けるとそうなっているはずです。

⸻そろそろ仕事が減ってきて雲行きがあやしいぞ、みたいになってきて会社を作られたわけですね。というと、『ムーミン』はおやりになってないんですね。

杉野 やってません。

⸻実際、東京ムービー作品に参加しはじめたのはいつごろですか?

杉野 昭和47年。『ど根性ガエル』からでしょうか。あれは結構やってるんです。この作品で随分叩かれました。ムービーとの初めてのつきあいでしたから。

⸻『ジャングル黒べえ』より前ですね。

杉野 そうです。当初、東京ムービーでちばてつやさんの『ユキの太陽』をやるという企画があったんですよ。結果的にそれがポシャったんで、『ど根性ガエル』をやることになったんです。

⸻では、マッドハウスとして仕事を始めたのは『ど根性ガエル』が初めてということですね。

杉野 そうです。

⸻Aプロダクションの方々というのはどうでしたか? かなり感化されましたか?

杉野 やはり、随分影響を受けました。虫プロとは全然違う。要するに映画的なんです。

⸻東映動画から来た方ばかりですからね。

杉野 カットの積み重ね方とかが随分違います。虫プロのときは漫画のコマ割りみたいに突然構図が変わったりするんですよ。腕を組んでるでしょう、そのあと止め、止め、で行って、次のカットで腕が降りていたりするんです。虫プロではそういうのが結構あるんだけど、それは絶対おかしいと。そういった細かいことを亡くなった長浜さんに、うるさく言われました。セリフの尺とかセルフの演技の付け方とかも。長浜さんは人形劇出身の方ですよね。かれはラッシュを見ながら女の声とか全部あてるんです。声色を使ってね。漫画映画でもここまでやるんだなぁ、と感心した記憶があります。

⸻『エースをねらえ!』はマッドハウスの企画なんですか?

杉野 いや、違います。『エース』のときは、僕は東京ムービーにマッドハウスから作画監督として出向していたんです。

⸻Aプロダクションで作画作業をされていたのでしょうか?

杉野 いえ、阿佐ヶ谷の東京ムービー本社です。この時期は出向でずっとムービーに行ってますよ。

⸻マッドハウスのスタジオでおやりになっていたわけではないんですね。

杉野 ええ。『エースをねらえ!』のときは椛島義夫さんがAプロから出向で来てました。それとムービーの社員だった北原健雄さんと。

⸻北原さんは、『ビッグX』からの社員ですね。

杉野 出向の人がふたり入って、『エース』くらいまで3人でやってました。でも、『エース』に関しては椛さん(椛島義夫)はほとんどやってないけど。

⸻『黒べえ』『エースをねらえ!』と、3人で作監をおやりになってますが、同じムービーのスタジオで机を並べて作画していたのでしょうか。

杉野 そうですね。この『ジャングル黒べえ』というのはもともととはAプロにいた宮崎駿さんの企画なんですよ。とてもうまい絵で描いてありましてね。これは要するに『オバQ』路線なんです。だから『新オバケのQ太郎』をやってた椛さんが参加してるんですが、今までの『オバQ』路線を出崎さんが、変えようという意識でやったんですね。もともと藤子不二雄さんの絵だからそんなに大きくは変えられなかったんだけど、もうちょっとシャープにしようとかいろいろ試行錯誤していました。多少違いますよね、『オバQ』とは。内容がちょっときつくなってますよね。今は問題があるらしくて再見の機会が少ないですが。

⸻非常にスピーディーでおもしろかったですけどね。

杉野 かなりハチャメチャだけど。

⸻では、『黒べえ』のキャラ表も杉野さんがお描きになったんですか?

杉野 後半になってゲストキャラを描いてます。メインキャラクターは椛さんですね。

⸻宮崎さんのキャラクター原案というのが当初あったのでしょうか?

杉野 ありましたよ。大切に保管されてるんじゃないかな。ムービーでもこの時代から神様みたいな人だったから。

⸻その企画原案を藤子さんの所に持って行かれて⋯⋯。

杉野 通ったんだと思います。

⸻『黒べえ』も作画監督として3人のお名前が表示されますが、分担的にはどのようになさってたんでしょうか。作監補という表現では違いますか。

杉野 補佐という感じではないです。単独に一本ずつ分け合ってたから3人とも作監でしょう。

⸻話が戻りますが、『エースをねらえ!』はムービーの企画なんですね。

杉野 そうです。

⸻当時はマッドハウスとして出崎さんなり、杉野さんなりが企画を提出して、ということがあったんでしょうか?

杉野 その辺の話はちょっとわからないね。どうしてこれが決まったのか。『エースをねらえ!』の途中からマッドハウスに戻って、制作自体もムービーの制作がマッドハウスに入ってきたんです。

⸻『エースをねらえ!』は杉野さんがメインキャラクターを全部描かれたんでしょうか。

杉野 そうです。設定書はボールペンか何かで描いてたんじゃないかな。

⸻『エースをねらえ!』は少女マンガですが、キャラクターはスムーズにできたのでしょうか?

杉野 スムーズじゃないですよ。キャラクターを作る前に作品世界を理解しなければいけないでしょう。それで原作を読むんですが、まず、1人称というのですか、モノローグのような漫画の語り口ですが、ああいう思考回路ができなくて最初は原作を読むのに四苦八苦しました。だんだん慣れましたけど。当時、少女ものを読むということはなかったですから。ちばてつや、手塚治虫、石ノ森章太郎らの描いた少女漫画くらいしか少女ものは読めなかった。

⸻『エースをねらえ!』は少女マンガのアニメ化としては少女マンガのテイストがちゃんと出ていますね。

杉野 どうでしょう。東京ムービーでは『アタックNo.1』というのがありましたが、最初、あの路線でやってくれと言われていたんです。でも出崎さんがやると絶対にああはならないというのがハッキリ出ましたね。彼は原作の味を生かそうとイラスト的に見せる手法を試みたりしていました。そういった延長で、出崎さんは『ベルサイユのばら』をやることになるわけです。

⸻『アタックNo.1』は主人公は女の子でも、少女マンガという感じではないですよね。原作の絵ともかなり違いますし。

杉野 『エースをねらえ!』も全然違うと言われましたけど。


●ムービー以外の仕事

⸻『ウリクペン救助隊』というのはキャラクターデザインをおやりになってるんですか?

杉野 そうですね。キャラクターと、これは雑誌ですね。原作みたいな参加の仕方してたから。

⸻実際には原作ですか?

杉野 そうです。何もないところから。ウサギ、リス、クマ、ペンギンでウ、リ、ク、ペン。そういうネーミング。

⸻なるほど。

杉野 そういうキャラクターから逆にお話を考えていったんです。これは確か冷凍食品のニチレイがスポンサーだったんじゃないかな。

⸻企画のほうはMKでおやりになった。

杉野 そうだと思います。

杉野 やっぱりタツノコプロの『てんとう虫の歌』なんかも、作監として3,4本やってます。全然絵が違うと言われましたけど(笑)。

⸻『大空魔竜ガイキング』は東映動画の企画ですか?

杉野 『大空魔竜ガイキング』も原作になってますよね。これは完全にオリジナルの話だから話だけでは東映とか代理店に話が通じないわけです。そのときに絵を作ってくれというので合体用のメカまで作ったんです。それで一応原作として名前を出してるんだろうけど。

⸻キャラ表は白土武さんが描かれてると思うのですが、原案の段階は杉野さんということですね。

杉野 そうです。僕の絵が使われているのはオープニングとエンディングだけ。後は何もやってない。

⸻作監はおやりになってるんですよね?

杉野 ええ、2、3本ですね。出崎さんが2本、いや1本か? あと高屋敷英夫さんが1本切って。それを原画と作監両方やっています。(編注:東映動画の資料では高屋敷演出の回、第11話「泣くなハチロー」と第18話「宇宙船ノアの方舟」の2本のみ作画監督として担当しており、出崎統の演出担当話は見あたらない)

杉野 このあたりに『元祖天才バカボン』の作監、原画というのをやっています。これは結構大変だった記憶がありますよ。エンディングの作画もやりました。かなり長くやってたんですよね。そうだ、それから森康二さんの作品もやってますよ。『草原の少女ローラ』。2本くらいやってるんじゃないかな、他に、20~30カットだけど小田部さんの『ハイジ』の原画もやっています。

⸻『母をたずねて三千里』は?

杉野 やってない。あれはすごく好きだったけど。やらせてくれなかった。スケジュール的にね。そういえば『小さなバイキングビッケ』もやってますよ。

⸻このころは、日本アニメの作品を多く手がけられているんですね。

杉野 そうです。桜ヶ丘まで行って高畑(勲)さんと打ち合わせしたりしましたからよく覚えてます。30カットくらいの打ち合わせに2時間くらいかかったから。

⸻昭和51年の『まんが世界昔ばなし』という作品は、ご自分としてはいかがですか? こういった作品は商業アニメですがその枠の中で個性が出せる作品だと思いますが。

杉野 この『まんが世界昔ばなし』と『ジェッターマルス』はお互い裏番組で同じ時間帯に放映してたんです。両方の作監をやってることがしょっちゅうあって、とにかく大変だったという記憶しかない。りん・たろうさんには悪いけど『ジェッターマルス』よりも、『世界昔ばなし』のほうに力が入ったんじゃないかな。ストーリーボードとか作ったりして、結構楽しんでやってましたから。『ジェッターマルス』は東映動画でしょ。だから手塚調がうまく出なくて、作監はえらく大変だった。東映系の各話作監の人がいて、それを僕がまた修正を入れる。随分文句を言われましたよ。

⸻東映動画というのは各話作監がいて、それぞれ、作家によって個性が出ますね。

杉野 あなたのやった作監の絵は違うからと言ってリテイクを出すと、それを、じゃあどうすればいいんですかってぼくのところに電話がかかって来る。原画に持って行き場がないと言われて。ああいうシステムはつらいですよ。

⸻東映動画というのは今だにそうですね。総作監というのがいなくて、各話作監というのを立ててやってます。

杉野 5人くらいたてて。その方がうまく回転するから。多少の絵のくずれは目をつむると。

⸻日本テレビ開局25周年記念番組で東京ムービー新社制作の『家なき子』は、立体アニメというふれこみでしたが、作画上大変だったことはありましたか?

杉野 一番大変だったのは尺が長いということです。立体に見せるのにカットがあまり短いと疲れてしまうんです。それで、20秒、30秒という長回しのカットが増えてきて、そこで演技をさせるのが大変でした。出崎さんの演出としては『ジョー』とか『エース』とは相当違った演出をされているんです。途中から立体というのを意識しなくなったから変わってきましたが。マチアが出てくる前あたりまでが長回しで大変でしたね。1カットが延々と長い。

⸻意識しなくなったというのはどういうわけからでしょう?

杉野 立体の効果がない、眼鏡なんかかけて見る人はいない、ということでどんどん排除されていったみたいです(笑)。

⸻あの眼鏡で見るとなんでも立体に見えたりしますよね。

杉野 見えるんですよ、あれは。3Dの実験フィルムを見たときはこれは本当にすごいと思った。それは球体が回っているだけなんですが、目の錯覚でしょうね、見ているうちにだんだん自分がその空間に入って行くような気がしてくる。最近、リメイクされていますがヒッチコックの『ダイヤルMを廻せ!』というのがありましたよね。あれも立体映画なんです。『家なき子』と同じでね。

⸻眼鏡をかけて見るんですか?

杉野 そうするんだろうけど、手前に見せるために、右から左にキャラクターが動くのをヒッチコックはすでにやっているんです。
(編注:ワーナー映画『ダイヤルMを廻せ!』Dial for Murder(日本公開1955年)は立体映画として制作されているが、公開は通常の方式で上映されている)


●あんなぷる設立

⸻あんなぷるの設立は何年ですか?

杉野 何年だろう? 昭和55年くらいかな。

⸻あんなぷるをお作りになって最初に手がけた仕事は『あしたのジョー2』ですか?

杉野 そうです。『あしたのジョー2』で出崎さんがマッドハウスを辞めるというので新しく作ったのがあんなぷるです。それからずっと続いてます。

⸻出崎さんと一緒に作られたんですか?

杉野 そうです。最初はふたりだけで。それからマッドハウスの原画を5人くらいひっこ抜いたんです(笑)。

⸻あんなぷるは有限会社ですか?

杉野 そうです。

⸻マッドハウスを抜けるときには何か経緯があったのですか?

杉野 とにかく、必ず平行になっていたんですよ。『家なき子』『宝島』のころには『マルコポーロの冒険』というように。ずっと2本平行で制作が重なっていたわけです。『あしたのジョー2』が決まったとき、社長にこの作品だけは大事にしたいから2本平行はやめてくれと進言したんですが、いや、会社的にはそれではもたないからと言われまして。それで決裂して出崎さんと会社を作ることにしたんです。

⸻『あしたのジョー2』に専念する、というきっかけで。

杉野 そうです。それで、ここからそういった掛け持ちというのは無くなってきます。

⸻『あしたのジョー2』の劇場版がありますがこれはテレビシリーズと平行作業ですか?

杉野 そうです。テレビシリーズやってる間に最終話の真っ白になるところを優先的に描いたんです。それから、それをテレビに逆にかけた。同じフィルムをテレビ用に編集しました。何をやってるのか忙しくてわからなかったですけど(笑)。

⸻劇場作品『SPACE・ADVENTUREコブラ』では原作者の寺沢武一さんのチェックがかなり入ったと伺っていますが。

杉野 きびしかったですね。キャラクターに関しても違う、違う、と言われましたけど。

⸻かなり、もめたんですか?

杉野 僕は知らない。そういう会議とかに出てないから。監督が相当言われたんじゃないですか。随分ミーティングしたみたいだったけど。

⸻キャラクターも何度も描き直しされたりと。

杉野 『コブラ』って寺沢さんが監督で、再アニメ化の話があったんですが、資金難でポシャったみたいですね。僕らにも参加しないかと声がかかったんですが。

⸻では、寺沢さんとしても信頼のおけるスタッフだと認識されたというわけですね。

杉野 違うでしょう(笑)。

⸻『キャッツ・アイ』のキャラクターデザインをされてますよね。

杉野 やってるけど、原作から離れすぎた絵だったんで、途中でまた平山智さんが新たに描いているんじゃないですか。オープニングとエンディング以外タッチしませんでしたから。ウチのかみさんは塚田信子の名前で作監やってるけど。

⸻『宝島』でも『エース』でも『ゴルゴ』でも、10等身もあるんじゃないか、というプロポーションでキャラクターを描かれますよね。

杉野 10等身もないけどね。それは監督の影響ですね。俯瞰でも8頭身に見えるように、なるべくつぶれた絵にしたくないというのがあって。多少望遠みたいな感じで絵を作るとかっこいいんじゃないか、という志向があるんです。

⸻出崎さんとの作品ですと、止め絵を効果的に見せるカットを多用されますよね。美術処理ではハーモニー方式(編注:セルに色彩するのではなく、色彩部分を背景のポスターカラーで画用紙上に仕上げ、それに線画のみのセルをかぶせて、カラーイラストのようにする画法)というそうですが、ああいう処理というのは出崎さんの意図でなされるんでしょうか?

杉野 そうですね。変にグニャグニャ動くのは出崎さんは嫌いだったみたいです。最近はまた指向が変わってきているみたいだけど。

⸻出崎さんの演出手法というのはリミテッドアニメーションの性質を一番効果的に見せる手法だと思うのですが。

杉野 簡単にいうと、フレームの中でテニスのボールがポンッと弾むというカットがあるとします。それは生でやると6コマくらいのカットでで終わってしまう。それを、サーブされたボールが激しく叩きつけられたという表現にするために、3回くらい繰り返したりしますよね。あれは本当はおかしいんだけど、強調するタイミングだと思うんです。パンチで殴られるというのも同じです。3回繰り返して最後にスローモーションでこうなりましたよ、といって見せるテクニックです。そのまま実写のようにやったらボクシングのパンチなんて見えない。テニスのボールだってほとんど線になるだけです。それをリミテッドの苦肉の策で3回パンする、繰り返す、またはそれを止め絵で、つぶれたボールで表現する、というところにたどり着いたんだと思うんです。あれはとてもテレビ的な発想ですよね。

⸻『おしん』はNHKのドラマがもとですから、かなり役者さんをイメージされて作られたと伺いましたが。

杉野 相当苦労したんだけど、そういう感じが全然でてない。あれは監督山本暎一さんですよね。一緒に会っていろいろ話をしたんだけど、難しかったな。

⸻実際に役者さんの顔をまねて、というか自分の絵ではなくて作らなくてはいけないときはご苦労があると思いますが。

杉野 そうですね。暎一さんは自分なりにこういう絵にしたいというのを参考の絵本なんかを持って来るわけです。NHKの『おしん』のビデオも何回も見たんだけれど、その絵と合わないんですよ。いろいろな本を見せられて、こういう絵にしたいんだと言われるんですが、その絵本はとても詩情溢れる絵本なんだけれど『おしん』の持ってる作品世界とは合わないな、というのがあって思い切ったデザインができませんでした。それでああいう似顔絵調の絵になっちゃったんです。

⸻このころ、合作ものを多く手がけていらっしゃいますよね。

杉野 『ニモ』のころね。アメリカと合作した『MIGHTY ORBOTS』や『SweetSea』とかをやりましたね。『SweetSea』はディズニーの『リトルマーメイド』の原版みたいな話です。

⸻これもキャラクターデザインと作監ですか?

杉野 そうです。東京ムービー新社では、この時期合作ものをたくさんやってますよね。恐竜ものもやってるし。『リトルズ』とか。僕はこれはキャラクターやりたくないって逃げ回ってるけど。

⸻「Reporter Blues」というのは?

杉野 これは2本か3本だけだと思うけど。

⸻『MIGHTY ORBOTS』は企画自体はアメリカなんでしょうか?

杉野 そうです。

⸻では、キャラクターの原案も向こうから?

杉野 向こうのアニメーターが作ってきて、一応作監は僕になっているからそのキャラクターを僕なりに日本流に修正する⋯⋯はずだったんだけど、時間的にそこまではできなかったですね。

⸻キャラクターデザインと作画監督を兼ねる場合と比べて、キャラクターデザインは別の方が担当して杉野さんは作監のみをされる場合というのは、修正に時間がかかると思うのですが。

杉野 描きやすいキャラクターだとそんなことはないですけど。やりづらいときのほうが多いでしょう。自分がやっていれば全部覚えてるけど、他人のものはそらで描けないし、キャラクターへのこだわりというものが人それぞれ違うから。


●杉野昭夫とアニメーション

⸻杉野さんとしてはディズニーや初期の東映動画のつねに絵が動いてるような、フルアニメーション作品を手がけてみたいと思われますか?

杉野 『白蛇伝』なんかを見たときはかなりショックを受けましたけどね。でも、ああいうものはとてもやれないと思っていたから。

⸻アニメーションで影響をうけた作品または作家の方はありますか? 『白蛇伝』とかディズニーとか。

杉野 好きですが、それほど影響はされてないかな。

⸻漫画を描かれていたとき、どなたかお好きだった漫画家の方はいらっしゃいますか?

杉野 当時の劇画ですね。さいとうたかをとか。僕はどっちかというとマニアックなほうが好きでして、つげ義春さんの小じんまりとした短編とかね。ああいうものを目指していました。アニメーションで影響を受けたというのはあまりないですね。手塚さんが東映で初めて参加したのは『わんわん忠臣蔵』でしたか?

⸻いえ、『西遊記』ですね。

杉野 そのあとが『わんわん忠臣蔵』?

⸻『シンドバッドの冒険』をおやりになって⋯⋯。

杉野 あれはほとんど形だけでしょ?

⸻かなりキャラクターのデザインと原案を描かれて、ストーリー構成なんかも携わっていらっしゃるそうなんですが、ほとんど却下されてみたいです。

杉野 『西遊記』だって違うでしょ?

⸻でも、おおもとは『ぼくのそんごくう』が原作ですから。

杉野 大幅に違うという話を聞いているけど。でも、インパクトがあるのはそのあたりの作品ですね。アニメーションをやってみようかなと思ったのは。

⸻『わんわん忠臣蔵』なんかもお好きだった?

杉野 好きだったけど、今見るとちょっとしんどいですが。

⸻東映動画の『西遊記』は、虫プロの『悟空の大冒険』よりは手塚さんの味が残ってますよね。

杉野 それはそうですね。

⸻虫プロで制作しているのに、よく手塚さんがOKしたなと思うんですが。

杉野 いや、当初はかなりもめたんじゃないですか。手塚さんは、海外には猿は絶対売れないと言ってましたから。

⸻今まで仕事をされてきて一番思い出のある作品といいますとどの作品でしょうか。

杉野 『家なき子』にしても『宝島』にしてもひとりで全部やりきったわけではないし⋯⋯。

⸻原作物のアニメよりはオリジナルアニメのほうがご自分の個性が出ると思うのですが。

杉野 こうしてリストを見ると、楽しいギャグものをほとんどやってないなぁ。

⸻ギャグものですか?

杉野 まぁ、『バカボン』があるけれど。

⸻そういった傾向のオリジナル喜劇を手がけられたいとか? カトゥーンのような。『トムとジェリー』がお好きだと伺ったことがあるんですが。

杉野 本当は『ウリクペン』あたりでそんなことができれば良かったんだろうけど。とてもそこまで手が回りませんでしたから。それと結局できなかったんですが、『ニモ』のような作品はやりたかったですね。

⸻杉野さんとしては、だいぶ思い入れた企画だったんですか。

杉野 そうですよ。あそこまでやらせておいて、というほど作業をしましたから。

⸻あれもいろいろなスタッフによるパイロットフィルムが3本くらいありますね。宮崎さんなんかもおやりになってますし。

杉野 何年間もアメリカを行ったり来たりして、キャラクターを作ったんです。それで最後に降ろされちゃって。非常に残念でしたよ。

⸻本当に多彩というかさまざまなお仕事をされてますね。

杉野 なんでもやらないと食えなかったというのが実際のところでしょう(笑)。マッドハウスやあんなぷるができたころというのは仕事をしなくなちゃ会社が成り立たなかった。

⸻現在は手塚プロに出向されているのですか?

杉野 契約です。出崎さんと。いくら仕事をやっても同じだし、仕事をやらなくても同じだという(笑)。非常に中途半端。

⸻今後も手塚プロさんと仕事をされるんでしょうか?

杉野 『ぼくのそんごくう』の劇場用がなんとか決まりそうだから。もう一回劇場作品に挑戦しようかなと思ってここに付いてるんだけど。

⸻それは楽しみですね。いつごろから制作が始まるのでしょうか。

杉野 シナリオを夢枕獏さんが書いていて、それが通れば来年早々からそれで動くんじゃないでしょうか。

⸻松竹も手塚さんの映画化を『BLACK JACK』から始めて、去年の『ジャングル大帝』と安定路線にしたいという話を聞いていますが。

杉野 なかなか難しいですよね。原作のファンがいますから、漫画のイメージを極端に変えるわけにはいかなくて。

⸻ただ、こういっては語弊があるかもしれませんが、手塚治虫先生がご存命中のころよりは自由な制作姿勢がとれると思うのですが。

杉野 幅は広がったとは思うんですが、それも善し悪しだと思ってる人もいるようですから。出崎統と手塚治虫とは資質が違うでしょ。当然違った作品ができあがります。

⸻『ブラック・ジャック』の劇場版は出崎さんのオリジナルですよね。

杉野 そうです。あれと時代劇の『雪の夜ばなし』は完全に出崎さんの世界。オリジナルです。

⸻おのずと出崎監督の作品への参加が多くなると思いますが、出崎さん以外の演出家の方で組んでみたい方はおられますか? やはり出崎さんが杉野さんの資質を引き出してくれている監督さんなんでしょうか?

杉野 出崎さんとは長年やってますから。やり易いといえばやり易いし、やり辛いといえばやり辛い。だいたいお互い手の内がわかっちゃってるから。ここをこうするとこうなるということが読めちゃうんですよね。

⸻あうんの呼吸というか、以心伝心というか。

杉野 それがなれ合いにも見える場合もあるかもしれない。難しいですね。たまに違う監督とやると気分転換にはなります。

⸻杉野さんとやらなかった『ルパン三世』のスペシャルがありますが、視聴者の立場からすると、出崎さんの演出なのにいつもと違うぞ、という印象を受けたんですが。

杉野 本当? いや、わからないな。あのときは、出崎さんに、「ルパンには向いてない」と言われてやらせてもらえなかったから。そうなのかなと思ったんですが(笑)。

⸻同じモンキー・パンチの原案で『坊っちゃん』はおやりになってますよね。

杉野 あの作品の監督は竹内啓雄さんですよね。一応監修という形で出崎統さんの名前も出てるけどほとんどやってないはずです。竹内さんとの作品は『ジャングル大帝』もそうだけど結構ありますね。『宝島』の後半でも竹内さんの演出した回というのを僕が作監をしてたりする。結構遊んだりしてるんです。

⸻竹内さんとはいつごろからのおつきあいですか。

杉野 『ジャングル黒べえ』のころからですよ。同じ部屋で演出助手をやってましたから。『新オバQ』からやってる人。

⸻そのころ竹内さんはマッドハウスにいらしたんですか?

杉野 『エース』のころからマッドハウスの社員になったんです。もともと、あの人はシナリオを書いてたんです。今はフリーですね。

⸻今後、手がけてみたい作品として何かありましたらお聞かせください。

杉野 そう言ってもそれが通ることはほとんどない(笑)。『ぼくのそんごくう』という作品は実現しそうなので、それで夢が半分くらいは叶うかなと思っているんですが。あれはなんでもありの話ですよね、冒険もので。ストーリーを追いかけなくてもいいような、アニメーターが遊べる作品だと思うんです。そういう作品に携わっていくと少し違うスタンスをとれると思うんですが。

⸻ご自分の新境地が開けるというわけですね。監督はどなたがおやりになるのでしょうか?

杉野 まだ、決まってないんです。いろんな候補がいるんだけど。ビートたけしを起用しようかとか。でもアニメの監督は違うからね。

⸻杉野さんのまた違った一面を見れることを、ファンのひとりとして楽しみにしています。


杉野昭夫 主要作品リスト

(再編集上映作品は除外、[ ]内の役職はクレジット未表示のもの)

封切日・放映日 タイトル 制作会社 担当
1963(昭和38)年1月1日~放映 鉄腕アトム 虫プロダクション [動画]
1965(昭和40)年10月6日~放映 ジャングル大帝 虫プロダクション [原画、動画]
1966(昭和41)年10月5日~放映 ジャングル大帝 進めレオ! 虫プロダクション [原画、動画]
1968(昭和43)年2月1日~放映 わんぱく探偵団 虫プロダクション 作画、[作画監督]
1968(昭和43)年10月3日~放映 佐武と市捕物控 虫プロダクション 作画「キャラクターデザイン、作画監督」
1969(昭和44)年6月14日封切 千夜一夜物語 虫プロダクション 動画
1969(昭和44)年制作 FROSTY THE SNOWMAN(合作) 虫プロダクション 原画
1970(昭和45)年4月1日~放映 あしたのジョー 虫プロダクション 作画監督、[キャラクターデザイン]
1970(昭和45)年制作 THE MAD, MAD, MAD COMEDIANS(合作) 虫プロダクション 原画
1970(昭和45)年制作 TOMFOOLERY(合作) ランキン・バス・プロダクション [絵コンテ清書]
1970(昭和45)年制作 MR. TOAD(合作) ランキン・バス・プロダクション [原画]
1971(昭和46)年10月6日~放映 国松さまのお通りだい 虫プロダクション 作画監督、[絵コンテ]
1972(昭和47)年10月7日~放映 ど根性ガエル 東京ムービー 原画
1973(昭和48)年3月2日~放映 ジャングル黒べえ 東京ムービー 作画監督(作監補)
1973(昭和48)年10月5日~放映 エースをねらえ! 東京ムービー 作画監督、[キャラクターデザイン]
1974(昭和49)年1月6日~放映 アルプスの少女ハイジ ズイヨー映像 原画
1974(昭和49)年4月3日~放映 小さなバイキングビッケ ズイヨー映像(日本アニメーション)、タウラスフィルム 原画
1974(昭和49)年9月30日~放映 ウリクペン救助隊 タツノコプロ、ユニマックス キャラクターデザイン
1974(昭和49)年10月6日~放映 てんとう虫の歌 タツノコプロ 作画監督
1975(昭和50)年1月上映 ザ・ファイヤーGメン 読売映画社 原画
1975(昭和50)年4月4日~放映 ラ・セーヌの星 ユニマックス キャラクターデザイン
1975(昭和50)年10月6日~放映 元祖天才バカボン 東京ムービー 作画監督、原画
1975(昭和50)年10月7日~放映 草原の少女ローラ 日本アニメーション 原画
1976(昭和51)年4月1日~放映 大空魔竜ガイキング 東映動画 原作、作画監督
1976(昭和51)年6月制作 幸せは安全と共に 読売広告社 原画
1976(昭和51)年10月7日~放映 まんが世界昔ばなし ダックス・インターナショナル、ワールド・テレビジョン 作画[キャラクターデザイン、作画監督]
1977(昭和52)年2月3日~放映 ジェッターマルス 東映動画 キャラクター設計・監修、作画監督
1977(昭和52)年10月2日~放映 家なき子 東京ムービー新社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1978(昭和53)年10月8日~放映 宝島 東京ムービー新社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1979(昭和54)年4月7日~放映 アニメーション紀行 マルコ・ポーロの冒険 MK・マッドハウス キャラクター設定
1979(昭和54)年9月8日~放映 エースをねらえ! 東京ムービー新社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1980(昭和55)年1月6日~放映 トム・ソーヤの冒険 日本アニメーション 作画監督
1980(昭和55)年4月2日放映 ほえろブンブン 和光プロ [オープニング・エンディング作画]
1980(昭和55)年10月9日~放映 ほえろブンブン 和光プロ [オープニング・エンディング作画]
1980(昭和55)6月13日放映 日生ファミリースペシャル 坊っちゃん 東京ムービー新社 作画監督
1980(昭和55)年制作 電話の天使、電話の悪魔、電話のマナーは思いやり 読売広告社 [監修]
1980(昭和55)年10月13日~放映 あしたのジョー2 東京ムービー新社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1981(昭和56)年3月14日封切 ユニコ サンリオ株式会社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1981(昭和56)年7月4日封切 あしたのジョー2 三共映画、ヘラルド・エンタープライズ、富士映画、ちば企画 作画監督、[キャラクターデザイン]
1982(昭和57)年7月3日封切 SPACE・ADVENTUREコブラ 東京ムービー新社 作画監督、[キャラクターデザイン]
1982(昭和57)年10月7日~放映 スペースコブラ 東京ムービー新社 作画監督
1983(昭和58)年5月28日封切 ゴルゴ13 東京ムービー新社、フィルムリンク 作画監督
1983(昭和58)年7月11日~放映 キャッツ・アイ 東京ムービー新社 キャラクターデザイン、[オープニング、エンディング作画]
1984(昭和59)年3月17日封切 おしん サンリオ株式会社 キャラクターデザイン
1985(昭和60)年7月25日~発売 MIGHTY ORBOTS(合作)(全6巻) 東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1986(昭和61)年制作 Sweet Sea(合作) 東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1986(昭和61)年7月31日発売 那由他 那由他プロジェクト、サーカスプロ キャラクターデザイン、作画監督
1986(昭和61)年11月1日封切 11人いる! キティ・フィルム キャラクターデザイン
1987(昭和62)年制作 Blinkins(合作) 東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1987(昭和62)年制作 NEMOパイロットフィルム 東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1988(昭和63)年7月9日封切 エースをねらえ!2 バンダイ、東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1988(昭和63)年7月25日~発売 エースをねらえ!2(全6巻) バンダイ、東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1988(昭和63)年9月1日発売 現世守護神ぴーひょろ一家(全3巻) 鎌倉スーパーステーション、東京ムービー新社 キャラクターデザイン、作画監督
1989(平成元)年3月25日~発売 華星夜曲 第1楽章~第4楽章(全4巻) 徳間ジャパン、マジックバス キャラクターデザイン、作画監督
1989(平成元)年10月14日~発売 海の闇、月の影 第1章~第3章(全3巻) バンダイ、鎌倉スーパーステーション、ムービック、ビジュアル80 作画監督
1989(平成元)年10月25日~発売 エースをねらえ!ファイナルステージ(全6巻) バンダイ、東京ムービー新社 キャラクターデザイン
1989(平成元)年制作 DISNEY’S GUMMI BEARS(合作) ウォルト・ディズニー・テレビジョン・プロダクション 作画監督
1990(平成2)年4月25日~発売 B.B(全3巻) バンダイ、マジックバス キャラクターデザイン、作画監督
1990(平成2)年12月25日発売 修羅之介斬魔剣Vol.1死鎌紋の男 プロミス、東映ビデオ キャラクターデザイン、作画監督
1991(平成3)年3月25日~放映 GALAXY HIGH-SCHOOL(合作) 東京ムービー新社 作画監督
1991(平成3)年7月14日~放映 おにいさまへ・・・ NHK、NHKエンタープライズ、手塚プロ 作画監督、[キャラクターデザイン]
1991(平成3)年10月3日~放映 Reporter Blues(合作) 東京ムービー新社、RAI 作画監督
1992(平成4)年12月21日発売 宝島メモリアル「夕凪と呼ばれた男」 KSS、東京ムービー新社 作画監督
1993(平成5)年8月6日放映 NHKスペシャル ヒロシマに一番電車が走った~300通の被爆体験手記から~ NHK、手塚プロ、マッドハウス [作画監督協力]
1993(平成5)年12月21日~発売 ブラック・ジャック KARTEⅠ~Ⅶ(7巻) 手塚プロ、秋田書店、フォルテミュージック他 キャラクターデザイン、作画監督
1994(平成6)年制作 オサムとムサシ 手塚プロダクション キャラクターデザイン
1995(平成7)年制作 都会のブッチー 手塚プロダクション キャラクターデザイン
1996(平成8)年11月30日封切 BLACK JACK 手塚プロダクション、松竹 キャラクターデザイン、作画監督
1996(平成8)年制作 オツベルと象 手塚プロダクション キャラクターデザイン、作画監督
1997(平成9)年4月1日~放映 手塚治虫の旧約聖書物語 手塚プロダクション 作画監督
1997(平成9)年4月9日~放映(18話まで) 白鯨伝説 手塚プロダクション 原作
1997(平成9)年8月1日封切 ジャングル大帝 手塚プロダクション、松竹 キャラクターデザイン、作画監督
1998(平成10)年5月21日発売 ゴルゴ13”QUEEN BEE” BMGジャパン、フィルムリンク、グッドヒルヴィジョン キャラクターデザイン、作画監督
1998(平成10)年10月21日~放映 白鯨伝説 手塚プロダクション 原作、作画監督

(出典:キネ旬ムック 動画王 Vol.7 p140-161)

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